長崎原爆 生死分けた母の言葉


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長崎原爆 生死分けた母の言葉
2016年、長崎の被爆者らの間で、あるニュースが話題になった。
わずかな差で分かれた生死をどう受け止めるべきか、川上さんら1年生は詰め込みで授業を受けていた。
だが、川上さんはきょうだいと家にいた。朝、空襲警報が鳴り、母の「学校に行かんでいい」との言い付けに従ったためだ。早めの昼食で、炊いたカボチャに箸を伸ばしていたとき、空の色が黄、紫と変わった。
「ドーン」。ごう音と爆風に、両手で目と耳を押さえ、身を伏せた。自宅は爆心地から約3・7キロ、勤務先にいた父も含め家族全員が無事だった。
一方、瓊浦中は爆心地から約800メートル。同窓会の役員によると、原爆によって、1年生約300人中114人が亡くなったという。その一人が、谷崎昭治さんだった。
登校後の詳しい状況は分からず、遺体も見つかっていない。下宿先で見つかった水筒が、遺骨代わりに墓に納められた。70年後、長崎市で原爆写真展が開かれ、谷崎さんの妹が1枚の写真の前で立ち止まった。
全身が炭のようになった少年の遺体。有名な写真で、存在は知っていたが、改めてじっくり見たところ「兄と額の形が似ている」と思ったという。法医学研究者による鑑定で「谷崎さんの可能性が高い」との結論に至り、16年6月に地元の平和団体が発表。
川上さんにも、長崎の知人から連絡が来た。クラスが違ったため、名前を聞いてもぴんとこなかった。ただ、被爆による甲状腺機能低下症に悩まされながらも戦後を生き抜いてきた自身と、13歳で途絶えた谷崎さんの人生を重ね合わせると、言葉が見つからなかった。
同じように登校し、被爆した同級生の姿を思い出した。全身の皮膚がただれ、赤く腫れ上がっている。かすかな呼吸。
群がるハエ。家族がすすり泣きながら、うちわであおいでいた。分かれた生死をどう捉えるべきか。
川上さんは絞り出すように「運命のあや」と表現し、あの日、登校をやめさせた母の指示をかみしめる。原爆投下の10日ほど前、長崎は空襲に遭い、自宅と家族を失った父の同僚が川上さんの家に身を寄せていた。母は、一人生き残った同僚の悲しみを肌で感じていたという。
「母が私を登校させなかったのは危険だからではない。「死ぬときは家族一緒に」との思いからだった。生き延びるためではなく、死の覚悟によって、結果的に命を救われたんです」。

[紹介元] Yahoo!ニュース・トピックス – 主要 長崎原爆 生死分けた母の言葉

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